川崎重工が建造した護衛艦「わかば」とは?

川崎重工の神戸造船所で建造された船の中に護衛艦「わかば」という名前は存在しません。しかしれっきとした川崎重工の建造した船の一隻。何故なら海上自衛隊護衛艦「わかば」は駆逐艦「梨」として建造された数奇な運命を辿った船なのであります。今日はそんなあまり知られていない船のお話。

こんにちは、三重のカワサキのバイク屋、カワサキプラザ桑名の代表の今西です。

川崎重工が建造した船で戦艦や空母など有名であり、駆逐艦となるとあまり知られていないと思います。しかも護衛艦「わかば」と聞いても誰も知らないかな(笑)よっぽどのミリタリーに興味がないと。

元々、この船、駆逐艦は大戦中に川崎重工で旧日本海軍の駆逐艦、松型として建造された船であります。大戦末期、任務の幅が広くなった駆逐艦は次々と世界の海の海戦に駆り出されて、消耗が激しく駆逐艦不足となっていきます。そして元々、旧日本海軍は駆逐艦を相手と船同士が戦う、艦隊決戦用として設計されていた駆逐艦が多かったのであります。
しかし、大戦では艦隊対艦隊の、大砲や魚雷の戦いから航空機からの攻撃が主力となり、いかに戦艦や空母、輸送艦などを航空機から守ることができるのか?という本来予定されていた駆逐艦の使用目的とはかけ離れた戦争へと変化してました。しかも旧日本海軍の駆逐艦は、大戦前のロンドン軍縮会議などにより、軍艦の建造数に制限がかけられており、沢山の軍艦を揃えることができないなら、一隻一隻を重武装化という傾向がありました。という事は、コストや建造日数がアップする駆逐艦が多く、戦時中に緊急に大量に必要とされた時に大量量産には不向きでした。

この護衛艦「わかば」の同型である駆逐艦「松型」は大量量産しやすいようにコストを抑え、航空機から守るために武装を大きく変更して最短の建造日数だと50日くらいで完成した船もありました。がしかし、大戦末期、船を動かす燃料も枯渇して活躍ができる場も無くなっていき、駆逐艦「梨」も呉の海軍基地で防空任務についている時に航空機の攻撃を受けて沈没してしまいます。

戦後、海中に沈んだ駆逐艦「梨」を引き上げが実施されはじめは魚の棲み家にするために引き上げして違うところにらまた沈める予定でしたが、紆余曲折があり、海上自衛隊で護衛艦として修理して使用することになりました。そして修理が完了して護衛艦「わかば」と命名された訳であります。

船って同型艦がほぼ存在して同じ同型艦同士でチームを組むのが多いのですが、護衛艦「わかば」は海上自衛隊の中ではもちろん同型艦が存在しなく、練習艦、警備艦、そして実験艦として数奇な運命を、どちらかと言うと裏方で海上自衛隊を支えた船と。

1770年代に退役して、解体された訳でありますが、駆逐艦という艦種であとにも先にも旧日本海軍から海上自衛隊に受け継がれた最初で最後の船となりました。

そんな歴史の一部を、不思議な運命を辿った川崎重工の船。いろんな歴史を調べていくと、作ったモノにもいろんな物語がありますね。


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サザンが大好き、ワインも大好き、もちろんバイクも(笑)アニメからミリタリーまで幅広い多趣味です!愛車はNinja1000お店も遊びが中心♪沢山のイベントをしてます!三重県桑名のカワサキプラザ桑名 今西マシーンテクノ社長です。

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