1月17日、忘れもしない阪神・淡路大震災の日。1995年1月17日に起こったあの大きな震災で、沢山の悲しみがあり、沢山の人の運命が変わり・・・もうあれから20年以上の月日が流れました。あの日あの時自分が神戸で少しだけでも人の役に立てたのか。今でも疑問ですが、現場でボランティアとして2ヶ月いた自分の回想録です。
こんにちは。三重のカワサキのバイク屋の今西です。今ではもう阪神・淡路大震災の話はあまりしなくなりました。辛い出来事だったから。だからこそ、年に一回は思い出して当時の事を見つけなおす思いを込めて、ブログに書きました。
当時1995年は、実は高校3年生。震災当日の1月17日は、高校最後のテストがあり、夜中の3時くらいまで起きてました。その後、5時46分に地震が起こり、実は住んでい三重県桑名でも大きく揺れました。かなり怖いくらい・・・こりゃしゃれにならん!!と思ったくらい。
まぁその時は、朝から学校に行き、テストを受けたんですが、お昼前に家に帰ってきた時、テレビで神戸の長田区の大火災の映像を見て愕然と。これが日本の映像なのか!!と。
それから毎日報道される神戸の姿を見て、いても立ってもいられなくなり、単身何もあてもなく、神戸まで動いている電車を乗り継いで東灘区に入りました。ちょうど震災発生から1週間の時。高校生の僕に何ができるんだろう。けどきっと何かできる事は現場にあるんじゃないかと神戸に行きましたが、着いた瞬間足が震えましたね。テレビの映像がリアルな現場に変わった瞬間。神戸行きを決意したとき、3~4日間で帰るつもりでした。けどね、うちのオカンが「どうせ行くなら3~4日間で帰ってくるんじゃなく、10日間以上現場で動きないさい!」と。すぐに帰ってくるな命令があり・・・。
東灘の小学校でボランティアとして始まりましたが、当時東灘はけっこうボランティアが来ていて、長田区が人が足りないということで、翌日長田に行くボランティアの車に同乗させてもらい長田に移動。長田小学校に。今考えると全く知らない初対面のボランティアの人の車に乗り、5時間くらいかけて長田に移動・・・帰る足の算段もせず・・・
そこから長田小学校でのボランティアがスタートしました。当時ボランティアって概念ややることや、被災者と避難所を運営する神戸市の職員、ボランティアの線引きがあいまいで何がボランティアの仕事で何が神戸市職員の仕事・・・という・・・ただ思いは一つでとりあえず何とかこの状況でも前に進もうとみんなが一緒になって活動していました。
それから、4月の大学が始まるまでやく2ヶ月間の間、高校の卒業式などで数回三重に戻りましたが2ヶ月の間、長田小学校に常駐してボランティア活動をしてました。
何もわからない高校生がよく、常駐したもんだです。当時の神戸市職員のみなさんや、避難者の人達のサポートもあり、活動していたんだなぁと思います。いろんな出来事があり、悲しい事、現地で避難している人達を一緒に食べたお弁当など、不謹慎な事だけどうれしい事もあり、楽しい事もありました。
そして当時のボラインティア仲間や、神戸市職員の人達が今でも交流が続いている大切な友人たちとなりました。
そしてこれだけは伝えたい。避難していた人はもちろん、沢山の無名のボランティアが全国からそして被災した地元神戸から集まり、沢山活動したという事。だれもあの時は必至で少しでも役に立ちたいという気持ちで集まった事。そして自らも被災して、家が壊れたのに神戸市職員という立場で現場で全く不慣れな避難所運営を余儀なくされた職員の方々。彼らがいて、彼らの努力があったこそ今の神戸があるんでしょうね。
正直、この日はくるとすごく辛い日々を思い出します。果たして自分は神戸で何ができたんだとうか?高校生の自分が一体どれだけの役に立ったんだろうか。この呪縛から解放されるのに20年の月日がかかりました。20年の節目の時、初めて神戸市役所の横の公園の黙とうの時間に現地にいけた。正直行くのが怖かったのが本音。
けど少しだけこの節目に三重の桑名から車を飛ばし、現地にいけたのが、自分にとって良かったのかも。
そして、今。娘を神戸に連れて行った時に、毎回お話します。
「昔、この神戸の街に沢山の人が集まり、困っている人を助けたんだよ。パパもその一人で、少しだけ神戸の街のお手伝いをしたんだよ」と。
イロイロあったボラインティアでの出来事、けど今でも神戸って街がボクは好きです。
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