さあ歴史の時間です!活躍しているオモテ舞台の歴史は専門家に…マニアックな歴史のお話♫
江戸時代の幕末のころ、桑名藩は幕府側についてずっと新政府軍(のちの明治政府)と戦っていました。あまり表舞台には登場しない地味な桑名藩ですが、実は結構歴史の中心で幕府側ではあったんですが、活躍した藩なんですよね。負けた側ですがね。
三重のカワサキのバイク屋、代表の今西です。
幕末の動乱の際にはよく見ると歴史の教科書の小さいところに桑名藩の名前がでてきます。桑名藩は三重県桑名を中心とした、松平家の藩であり、幕末の藩主は松平定敬公と言います。
実は松平定敬公は会津藩、白虎隊の悲劇で有名な会津藩主の松平容保公が兄なんです。
その兄である会津藩主の松平容保公が京都守護職という役職で、幕府に抵抗する人たちの取り締まりをしており、桑名藩主の松平定敬公も京都所司代として京都の治安維持をしていたんです。まあ治安を乱すのは、幕府反対派となる新政府の人たちを厳しく取り締まったから、恨みを買いますよね。そして、だんだんと形勢は幕府より新政府軍である、薩摩藩や長州藩が強くなってきて、歴史の教科書でよくみる「鳥羽伏見の戦い」で幕府側が敗退してしまいます。
その敗戦の最中、桑名藩主の松平定敬公は徳川15代将軍の徳川慶喜公と一緒に軍艦で江戸に戻って(付き添いです)じゃあ間もなく桑名に攻めてくる新政府軍には戦争?降伏?ということになったんです。
最終的には桑名藩は恭順(降伏みたいなもの)して新政府軍に降伏しますが、あれ?藩主は??
実は桑名藩主の松平定敬公はずっとそのあとも戦い続けたんです。鳥羽伏見の戦いから始まる「戊辰戦争」と呼ばれる戦争はこのあと、江戸城の無血開城のあと、戦場の舞台を東北に移して最後は函館の五稜郭まで戦いが続きます。なぜ桑名藩がそこそこ戦えたか?
実はこれには2つの大きな理由があります。
1、新潟の柏崎付近に飛び地の領地をもっていたから
2、近代的な装備であり、有能な指揮官「立見艦三郎」が指揮をとりはじめたから
といった感じです。
しかし、最後の最後まで抵抗して最後は藩の家来の人たちに説得され桑名藩主である松平定敬公も降参します。
しかしこの降参が遅かったのと最後まで抵抗勢力だったので、結構賊軍という汚名をうけ、反対に西南戦争では、桑名藩の藩士だった人たちが恨みつらみで政府軍という形で西郷隆盛公率いる士族と戦いを繰り広げるのであります。歴史って立場がちょっと変わるだけで大きく変化しますね。昨日まで反乱軍が次の日は政府軍として・・・。
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