あれから25年経ちました。阪神淡路大震災。年に一回だけ当時の回顧録としてブログを書いております。あの時、もし現場に行かなかったら、また違う人生だったのかもしれません。
こんにちは、三重のカワサキのバイク屋、カワサキプラザ桑名の代表の今西です。
あれから25年の歳月が過ぎました。阪神淡路大震災。当時高校生だったボク。あの日からの出来事は未だに思い出す事があります。
震災当時は、高校最後のテスト。テストが終わり、一週間後に神戸市東灘区に単独ボランティアとして
被災地に入りました。途中まで動いていた電車。東灘区の御影についたボク。
今思えば、高校生で一人単独で被災地に着替えと非常食を持って行った無謀な高校生でした。正直、御影駅に到着して電車を降りた後、街の光景、人々の疲れた光景を見て足が震えたことを覚えています。駅に着いた瞬間に正直怖くて、そのまま帰ろうと思った次第です。
けどその一歩を踏み出した時、気がつけば蓮池小学校で炊き出しの配膳のお手伝いをしていたボク。
震災から一週間の時間が経ち、電車が通っていた東灘区は結構ボランティアがいたんですよね。その夜、神戸市長田区(神戸の三ノ宮を超えた火災の酷かった地域)にはボランティアがまだまた足りないと言うことで、初対面したボランティアの人の車に乗せてもらい、長田区に行きました。
どこに行ったらいいか?どこが人手が足りていないか?当時は全く情報って分からなかったので、とりあえず、長田区だから長田小学校へ…という単純な発想で長田小学校に向かったんです。今なら東灘区から長田区までは車で30分かからないかな。けど当時はこの区間の移動に8時に蓮池小学校を出発して夜中の2時に到着したのを覚えてます。
夜中2時に到着した時、避難所となっていた小学校でホント喜ばれたのを覚えています。ホントまだ人手が足りなかった長田区。
そしてその長田小学校で2ヶ月ものボランティア生活が始まろうとは…避難している人たちと一緒に2ヶ月間避難所生活をしたんです。冷静に考えると…よく2ヶ月も避難所で暮らしていたと思います。
そこでいろんな事がありました。避難している人たちと一緒にお話したり、いろんな事して遊んだり、一緒にこれからの避難生活を考えたり…大変な事も沢山あったけど、沢山の人に出会えて決して楽しいではありませんが、いい時間であったのは変わりありません。
そしてこの阪神淡路大震災がボランティア元年と呼ばれ、その後の震災で沢山のボランティアが活躍しています。しかしその後ボクは震災でのボランティア活動は一切していないんです。何故なら正直怖いがホンネ。現場に2ヶ月過ごして怖いというココロも芽生えたのも事実。そしてあの2ヶ月を神戸の地でボランティア精神を使い果たしたので。
記憶が時間とともにだんだんと薄くなり、当時の詳細な記憶も徐々に忘れてきた最近。しかしボクは今でもはっきりと覚えています。
あの時、いてもたってもいられなくなった沢山の若者が何のつてもなく組織もなく自発的に神戸に集まりボランティアしていた事実。そしてそんな若者を暖かく自分たちも大変だったのに迎いれてくれた神戸の人々。
そして、みんなで寒い中食べた暖かい炊き出し。
25年経ちましたが、今日だけはどうしても涙が出てしまいます。もっとあの時出来たことがあったんじゃないかと。悔しい事をいまさら言っても仕方無いけどもう少しあの時オトナだったら…
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